お久しぶりです
不定期なブログでもあるにも関わらず読んでくれる人がいることはなんだか嬉しいです。
読みにくい文章ですが、読んでくださる方には感謝です。
今回は楽しい話題ではないです
さっそく本題に入るのですが、10月12日に母方の祖母が亡くなりました。
夏には父方の祖母を亡くしたのですが、こんな急に2人ともいなくなってしまい、なんとも言えない気持ちです。
僕には、これで祖父母はいなくなってしまいました。
細かいことは書かない方がいいのかなと思いつつも、ブログをメモとして使い始めたので、いまの感情などを忘れない為に、色々書かせて頂きます。
ここからは、想像するとあんまり気持ちが良くないと思います。
僕視点で話をします。
僕の家は一戸建てで、1階に祖母とおばさん、おばさんの娘が住んでおり、2階に僕の家族が住んでいます。
12日の朝7時、僕は布団で寝ていましたが、1階が騒がしいのです。
なんとなくぼけーと布団にいましたが、母親が早く起きなさい!おばあちゃんが死んじゃうかもしれない!っと言って、目が本格的に覚めました。
パジャマでいる訳にはいかないので、ひとまず服を着たら、1階から僕を母親が呼んでいました。
ダッシュで階段を降り、1階に行くと、リビングでおばさんの娘が泣いてました。
僕の母親は、1階のお風呂場に居たので、そこに行ったら、祖母が風呂の浴槽の中で目を瞑っている状態でいました。
おばさん一人では祖母を浴槽から出せない為、僕の力が必要だったみたいです。
祖母を浴槽から出し、洗面所に横にしたのですが、その見た目はあまりにもショックでした。
言い方はあまり良くないですが、年をとって痩せているので、異形?異質なものに感じてしまいました。
「死後硬直」
この言葉は、ドラマぐらいでしか聞いたことない言葉でしたが、浴槽から出した祖母の足や腕は固まっていました。
母親に心臓マッサージして!と言われ、救急隊が来るまでの、少しの時間ですが、心臓マッサージをしました。
正直なところ、浴槽から出した時点で、僕はだめだと思っていましたし、母親もそう思っていたみたいです。
しかし、心臓マッサージせずにはいられないのです。
戻ってくる感じがしないので、戻ってこい!なんて叫ぶこともしようとは思えませんでした。
そのあと、救急隊が来て、一通りのことをしました。しかし、戻ってくることはなく。
「救急車では運べません」
といわれました。
救急車は、あくまでも生きている人間の為の車。
「これから、警察が来ますので」
生きていない人は、警察が運ぶのです。
しかし、この時点では、僕の母親は祖母が死んでしまったという感覚は無かったようです。しかし、警察が来てこの一言で分かったようです。
「あー、死後硬直してるなぁ」
この時点で、母親は号泣していました。
僕まで泣いてるわけにはいかないので、泣かないでいました。
おばさんは介護の職員をしています。
夜遅くお風呂に入る祖母が出てきて、布団に入るのを確認してから、寝るようにしていたようです。
しかし、その日だけは、次の日におばさんが健康診断を受けるため早寝したのです。
おばさんは、祖母がお風呂で溺死してしまったものだと思ってしまったようで、自分のことを責めていました。
僕の母親は、それを慰めていました。
おばさんの娘は、ひとまず小学校に行かせたようです。
警察が祖母を検死するために、警察庁?に運んで行きました。
警察は事件性が無いか、を調べるのが仕事だからです。
検死の結果は、昼すぎた頃にわかると思うと言われ、それまではみんな家で待機です。
僕の姉はたまたま近くに来る用事があったようなので、家に昼飯を買って来てくれました。姉はそのあとすぐに帰りました。僕は大学で行ってる実験を中止するために、1度出かけました。
たまたま、大学の先生がいたので、事情を話して研究室を後にしました。
あまり、みんな食事は出来なかったです。
昼飯を食べたあと、1階からおばさんの泣き声が聞こえたので、母親が慰めに行きました。
検死が済むまでは、何が死因か分からないので、おばさんは自分のせいと何度も自分を責めていました。
検死が終わるまでの間に、警察の指示で、葬儀屋に連絡を取りました。
検死が終わり、警察署に呼ばれたのは、2時頃だったと思います。
部屋に通され、説明を受けました。
死因は、脳の血管が切れたか、もしくはくも膜下出血だそうです。
きっちり分からないのは解剖しないと分からないからだそうですが、警察は事件性が無いので解剖はしませんと言っていました。
説明を聞いて、これでいくらかおばさんが救われると思いました。
僕はこれぐらいの時から体調が悪くなってしまい、色々説明を聞きましたが、きっちりと覚えて無いところもあります。
ちなみに、お風呂で亡くなる方は非常に多く、どーしようも無いことだといわれました。
祖母の顔は穏やかな顔をしていたので、一瞬で逝ったんだろうと説明され、報われる気持ちではありました。
また、発見も非常に速かったと言われました。
祖母が風呂に入ったのは11日の23時頃、おばさんが祖母を発見したのは12日の6時半ぐらい。
一人暮らしの人だと、何日もして発見ということもあるそうです。
説明を受けた後、葬儀屋の車で、祖母は葬儀場に運ばれ、そこで祖母と再び対面しました。
硬直していないで、足や腕もすっと伸びているようでした。
祖母の死亡時刻は12日0時頃とされましたが、僕はその時起きていました。
でも、気が付かないですよね
発見が、血管が切れたすぐ後だったら助かったんでしょうか。どうなんだろう。
心臓マッサージしたけど、せっかく教習所で習ったのに役に立たないなぁなんて思ってしまいました。
対面した後は、葬儀をどうするかの話でした。
おばさんを喪主として、おばさん、母親と僕が相談して葬儀を決めました。
そして、その日は家に帰り寝ました。
次の日、昼頃から納棺の儀式をしました。
おばさんと母親と姉と行きました。
涙が止まりませんでした。
化粧すると生きてるようにしか見えないのです。すんごい気持ち良さそうに寝てるのです。
衣装を着せて、足に足袋?などを付けていくのですが、遺族もそれに参加するのです。
涙が止まりません。
その日は、儀式が終ったら帰りました。
そのあと、葬儀を執り行う日までは、僕は祖母に会いに行きませんでした。
自分の大学院入試が控えていたので、勉強せざるを得なかったのです。だけどもね、全然勉強なんて出来なかったよ。
葬儀は18日通夜、19日に告別式でした。
家族葬をすることになり、参列者は僕含めて8人です。
おばさんとその娘、僕の両親、姉とその旦那と娘、僕で8人です。
通夜では、あまり泣かずに済みました。
少し、気持ちが落ち着いたのでしょうか。
告別式は朝10時30分からでした。
読経を行い、初七日の法要もしました。
そのあと、棺を閉める儀式です。
この時に、棺に写真など入れるのです。
僕に関する写真は、1枚入れる予定でした。その写真は祖母がよく遊んでいたパソコンの上に飾ってあった僕の七五三の写真です。
写真立てに入っていました。
僕はその時に、久しぶりにその写真を見ました。太陽に当たってしまっているせいか、写真が色褪せていました。
棺に僕が泣きながらその写真立てごと納めました。
その時に、気が付いたのです。
その七五三の写真の後ろに、他の写真が入っていることに。
たまたま、2ミリ程度別の写真が見えていたのです。
その場で開けてみたところ、七五三以外の写真が5枚も出てきました。
全部、僕に関する写真でした。
涙が止まりませんでした。
幼稚園の入園式、小学校の入学式、僕が一人で写っている写真などが入っていたのでした。
涙が止まらなくなってしまいました。
思い出の品を入れた後、棺を僕達の手で閉めるのです。
しかし、おばさんと母親は最後のほんの隙間で閉められず、隙間から祖母の顔を見ていました。あぁ、こんなにも悲しいことがあるのかと思いました。
おばさんが位牌を持ち、母親が祖母の写真を持っていくことになりました。
棺を霊柩車に入れるのは男の仕事です。
霊柩車に入れる時にも泣いてしまいました。
手を離すのが嫌だったのです。
火葬場に移動して、祖母を火葬炉に入れました。
入っていく瞬間も泣いてしまいました。
そのあと控え室で、姪っ子の落書きを見ながら、過ごし、火葬が終わりました。
骨になった姿を見ましたが、そこからは涙は出ませんでした。
きっと、ぼくの中で何か踏ん切りが付いたのだと思います。
骨壷に骨を入れるのですが、太い骨でした。
父方の祖母の時は、99歳ということもあり、骨が少なかったです。
骨を入れる係の方が色々な説明をしてくれました。
骨壷は重いので、男が持つことになっているようで、僕が持つことになりました。
骨壷のそこはほんのり暖かったです。
火葬されたばかりなので熱を持っていたのでしょう。
最後、列になって歩く時は骨壷を持っている僕が先頭になり、歩きました。
このあと葬儀場に戻り、昼飯を食べました。
ここで葬儀は終わりました。
ここで少し、僕の姪っ子との話を。
僕にとっての姪っ子からすれば、ひいおばあちゃんなのですが、おおばぁちゃんと呼んでいたようです。
骨壷を見て、おおばぁちゃんは骨になったの?って聞いてきました。
僕は「そうだよ」と答えました。
5歳の子に、難しいことは分からないですし、人が死んだという感覚もないのだと思います。
でも、棺に思い出の品を入れる、僕や母親(姪っ子からすればおばあちゃん)、おばさん、おばさんの娘、僕の姉の泣いている姿を見て、一緒に泣いていました。
祖母が死んだことが悲しい訳では無いと思いますが、みんなが悲しんでいるということは分かったのだと思います。
そのあと、みんなで祖母と共に家に帰りました。
だいぶはしょりましたし、あまり僕の感情を書いてなかったかもしれませんが、こんな感じのことがありました。
人が遺体となった姿を見たことはありましたが、人が死んだ瞬間(正確には死んだあとすぐの姿)を見たのは初めてでした。
見なくていいのであれば、見ない方が幸せな気がします。
死に目に会えないとつらいのは分かりますが、死に目に会うのは、思っている以上に辛いです。というよりも、死に目に会う方が辛いです。あとになって、死に目に会えて良かったと思える日が来たらそれはそれでいいとなとは思います。
母親と話をしたのですが、こんな言葉あるじゃないですか。
「親孝行したいときには親はなし」
本当にそうだと言ってました。
親がいなくなってしまったからこそ、親のために何かしたくなるのだ。
親がいる間に、色々なことをしたとしても、あれも出来たはず、これも出来たはずと後から思うのだろう。
どうやっても、この言葉からは逃げられないんだろうと思いました。
時が経てば、他に考えることも出てきて、気が紛れて、祖母が死んだ時の話をあーだったねなんて話せる日がくるはず。
長すぎる文章ですね。
読んでくれてありがとうございます。
その後、僕は院試を受けました。まだ結果は分からないですけど、研究室の先生はまぁ大丈夫じゃない?みたいなこと言ってました。
本当かよ笑
ここいらで失礼します。